例えば、の話

例えば、の話

例えば、花束をもらう側の人間になりたかった。
大学のサークルを引退する時、最終公演で部長に花束を渡したのはもう何年も前の話だった。 
演劇部なんて当たり前のように沢山部員がいて、主演女優もいれば最後の最後までガムテープを抱えて舞台裏を駆けずり回る大道具担当もいる。光が当たる人と光を当てる人がいて、それには何の不満もなくて。あなたにスポットライトを当てたい。そしたらきっとあなたの涙も笑顔も怒りも全て何百倍にも魅力的にみせてやる。そういう感覚が好きだった。主演が思いっきり主演である為のお膳立て。だから、高校時代から六年間辞めずに続けた。
 部長は所謂愛され男で、細かいことは何にもできない奴だったけど、大勢の人間を盛り上げることにかけてはハズさない男だった。ここぞという時に目線を集めて、その言葉で五十人近くいる部員たちを同じ目的地に向かわせてみせた。そんなお星様みたいな男が最終公演のカーテンコールで花束を抱えて、泣いてるみたいにクシャクシャに笑ってくれて嬉しかった。
 例年、部長の他に副部長二人にも花を贈る先輩たちを見てきたから。引退が迫る馬鹿みたいに忙しい季節に、あぁ、花を忘れちゃいけないなと頭の片隅にまた一つメモをした。不器用な奴が我らの一番星だったから。上手くできない細々とした擦り合わせには心を尽くしてきた。「こうやりたい」という彼の言葉をできるだけ叶えてあげたかった。幹部に名乗りをあげる人たちは皆、良くも悪くも自分が強くて。献身よりも存在していることに意味がある。彼らはスポットライトを集めることはできるけど、花束を手配することはきっとできない。宴会で挨拶してその日一番の乾杯をできるけど、五十人分のお店の手配はきっとできない。
 私は将軍じゃなくて参謀あたりでかっこつけて。
 頑張ってたんだけどな。
 別にいいけど、例えばの話だけど。
 花束をもらう側の人間になりたかった。

 突然ぽかんと浮かんできたどうしようもなさを髪に絡む泡と一緒に熱いシャワーで押し流す。
 のんびりしてたら水道代がもったいない。湯も張らない浴室で私はせっせと身体を洗った。
 昔はお風呂で考えごとをするのが好きだった。汗とか、浴びるシャワーの勢いとかが、その時だけは私の身体から余計なものを全て流し去ってくれるような気がした。

 例えば、誘われる側の人間になりたかった。
 高校時代は妙な自意識に囚われていたから遊びに行ける友達が少なかった。みんなと違って県外の自宅から通学していたから、その距離のせいにしていたけれど。ご飯いこうよとか、買い物いこうよとか。誘ってみて微妙な反応とかされたら立ち直れない。勇気を出して言葉にしてみて、「あぁ、今度みんなで予定合わせて行きたいね〜」なんて返されたらもう誘えなかった。みんなに声掛けるのは全然構わない。どうぞ絡みやすい明るい彼女も呼んで下さい。でもね、今度ねって言われたら日本人だから行間読んじゃう。今度とおばけは存在しないっておばあちゃんも言ってた。
 そんな可愛い自意識は二十歳も超える頃には鳴りを潜めて、今じゃ何がそんなに怖いのよと呆れた微笑みを浮かべてしまう。十代の頃に思っていたほど周りはそんなに手厳しくないし、何よりそれなりに一緒に大人になっている。触るもの皆傷つけるナイフエッジガールみたいなのはゆっくりとその姿を消していく。そんなところで青春の儚さを知る。
 普通に会いたいなって言えば、誘ってくれて嬉しい! いつにする? って普通に言ってくれる。たまに「今度ね」構文が返ってくるけれど、別にそんなに気にならない。あら、マルチのお誘いと思われたかな。宗教系かな。男相手なら女として連絡した感じに思われたのかな、とか。親密度が足りませんでした、残念。それくらいの寂しさで、傷ついたりはしなくなった。
 逆に二つ返事で応えてくれる友達を大好きになった。呑もうよって言ったら、喜んでって言ってくれる。会ったら楽しい。向こうもほら、すごく楽しそう。今日は何したから、今度は何しよう。やっぱりこうやって話してるのが癒しになるよ。なんか盛り上がって話しすぎちゃったね。また誘ってよ。
 うん、誘うね。
 でも私、前回も、初めてのときも、誘った気がする。
 社交辞令かな、本当に私と遊びにいってみたいと思って言ってくれたのかな。相手との距離を測って、繊細に言葉の真意を読み解いて。どんな言い方したら突然誘っても怖くないかなって考える。どういう誘いだったら楽しみに思ってもらえるかなって考える。
 なんだかそういう要らないまわり道をしてから勇気を出してメッセージを送る。
 誘う。誘うよ。また一緒に意味ない会話しようよ。いつも遊んでくれてめちゃくちゃ嬉しいよ。
 でもさ、目的とか別になくてさ、悩みとかもなくてさ、わざわざ予定合わせて会う必要とか全くないときにさ。
 「会おうよ、いつだったら暇?」
 そんな言葉であなたに誘ってもらってみたかった。
 別にいいけど。例えばの話だけど。
 誘われる側の人間になりたかった。

 濡れた身体を拭くとき、なぜだか髪の毛からと決めている。
 ぽんぽんと柔らかく水気を取って、次は首。胸。腕。上から身体をなぞるようにバスタオルを押し当てていく。いつからか忘れたけれど、この瞬間を好きだと思うようになった。一日の中でどの自分よりも綺麗な自分。それが清潔な布に包まれていくその過程で、自分がとても大切で、壊れやすい、綺麗なものに思えるから。
 そんな夢見心地なことを頭では思いつつも、手早くその儀式を終える。乙女の素肌の保湿リミットは10分なのだ。お肌つやつやを守れるかどうかはこの10分間の努力にかかっている。化粧水、乳液、ボディクリーム……。偉い。偉すぎる、自分。とんでもないイイ女になっちゃうよ。
 座ったら立ち上がれないから、その勢いのまま長い髪を乾かす。ヘアオイルをつけたら、正真正銘一番綺麗な私になる。
 手入れが施されていて、あったかい血が巡っていて、周りの空気と自分の輪郭がほわほわ混じったような。
 誰にも知ってもらうことのない私。

 例えば、本気の告白をする側の人間になりたかった。
 好きです。付き合ってください。
 いや、もっと自然に? ねぇ、私たち付き合おうよ、とか。本気の告白って、みんな言葉を準備していくんだろうか。それともぽろっと溢れてしまうものだろうか。ぽろっとではなくて、ぶわっと波のようにぶつかっていくのかもしれない。その瞬間、思わず溢れたみたいな言葉を自分だったら聴いてみたい。
 記憶をどんなに遡ったって、そんな甘く切ない溢れんばかりの衝動を誰かに伝えたことがなかった。
 伝えようと決意したことも、うっかり口をついたこともなかった。
 恋愛していたときは、それこそ相手が勇気を振り絞ったみたいな告白をしてくれたこともあった。大概、恋の沸点は男の子の方が低くて、私の想いが熟す前に勝手にスタートダッシュをかましてしまうらしかった。まぁ、最終的に好きになる予感がしている恋なのだから最短距離で付き合いたい、というのが当たり前の感覚なのかもしれない。そういう歩調の差を重視しなかったから、彼らは今私の隣にいないのかもしれない。
 伝えなかった恋なら細々としたものから惜しいことをしたなというやつまで色々ある。
 クラスの中の立ち位置が違いすぎて片想いどころではなかったあの日の恋。あまりにも相手にされていないと感じて早々に撤退した哀れな恋。密かに思っていたはずなのに相手の彼女から牽制されて恐れ慄いた恋。あまりにも大切すぎて、怖くて、一生、ひとり胸の内で隠し通そうと決めた恋。
 結局、どれも自分を明け渡すという恐れと勇気を天秤にかけて「それほどの価値はない」と私が捨ててしまった恋。
 抑えられない。抱えていられない。打ち明けてしまわずにはいられない。それぐらい好きが溢れて止められない。それが本気の恋なら、そうやってするのが本気の告白なら、きっと私の恋はそのどれも本気じゃなかったのだ。
 ひとりぼっちの輪郭は脆い。
 恋で馬鹿になれる頃に、馬鹿にならなかったツケが回ってきているのかもしれない。
 慎重に、臆病に、それでいて努めて羽よりも軽く生きてきたのだ。今さらちょっとふらっと新宿やら渋谷やら人が行き交う街で出会って、愛し合って、結婚しましょう、なんて訳にはいかない。拗らせて歳をとった大人は心を開くにも時間が掛かる。面倒くさくて可愛かろう。
 そうして月日だけが流れる。
 誰にも愛されることはなく、誰のことも愛さなかったのよ。
 おばあちゃんはそう言った。孤独を居所に還暦を迎えた叔父について。それは生きている人間に向けられた言葉の中で何よりも切ない言葉のような気がした。
 もしこのまま時間が流れて、人間としての輪郭があやふやになった時には。その時は、誰にも知られず霧になって消えてしまいたい。
 まあ、別にいいけどね。恋を知らない訳でもないし。まだ、ギリギリ若いし。今すぐ死ぬ予定もないし。
 別にいいけど。例えばの話だけど。
 本気の告白をする側の人間になりたかった。

 恋もしてない仕事人間が夜ぐらい友達と集まってへべれけになる、というやつは意外とドラマの中だけの話なのだと社会人になってから知った。女子会だとか言いながら馴染みの店で変わり映えなく呑んで次の日ちょっと重い身体で出社する。そういう楽しみあるのかな、と学生時代は夢見てたけど無理だ。普通に身体が限界。うつらうつらと躱せる講義やサークル活動とは訳が違うのだ。早く寝かせてください。できれば沢山寝かせてください。
 予定もそんなにほいほい合うものではない。職種によるけど休みも合わない。大学生の頃は「呑めるんだから呑んどこう!」というめちゃくちゃな理論で毎日呑めたが、嫌なところだけが落ち着いたみたいだ。
 それでも、お風呂上がりのビールが最高に気持ちいいってことに孤独は関係ないらしい。
 丁寧に丁寧に扱われて、つるつるに手入れされて。頬がまだ火照っている間に、キンキンに冷えた缶ビールを喉に走らす。体内の熱も、今日言えなかったことも、全部が勢いよく泡の中に絡め取られて胃に落ちていく。苦味と甘い空気が鼻を抜ける。
 ビールを飲む時いつも美味しいっていうより気持ちいいって思う。苦いし。味が美味しいとかじゃなくて、冷えていて、刺激のある、爽やかな液体が喉を通るその感覚自体が好きなのだ。
 今日は気分がいいからわざわざグラスに注いでみたりして。隣に並ぶのはコンビニよりもちょっと遠い惣菜屋さんにわざわざ買いに行った焼き鳥。惣菜屋さんだから唐揚げでも白和えでも売っているけど、ビールを盛り上げるためにわざわざ焼き鳥。ちょっといい焼き鳥。
 明日はお休みだから一番楽でちょっといつもより幸せになれる夜を目指す。
 スマホも見ない。今日はいい夜にする日だから。
 ぷりぷりの焼き鳥はあっという間に口の中に放り込まれて、喉ごし命の魔法の液体はするすると胃に収まっていく。湯上がりの火照った身体が一度はその熱を忘れて、今度はもっと内側からぽわぽわと温もりが湧いてくる。
 眠たいような、甘えたいような、曖昧な高揚感。それから、少しばかりの空虚さと。
 まだ、飲みたいなと思った。いつもは冷蔵庫の缶ビールがなくなったときはそこで宴は強制終了。誰が決めたわけでもないのに律儀にそうしていた。別に買いに行ったっていいんだよな。なんか今まで気が付かなかったな。お風呂が終わった後に、友達との飲み会でもないのに、恋人と過ごしているわけでもないのに、深夜の空気に飛び込んで酒を煽ったっていい。
 それはつまり、大人になったということなのかもしれなかった。
 部屋着のまま財布とスマホを片手に家を出る。一番近いコンビニまで五分ちょっと歩いていく。五月の夜の空気は温く、酔いも手伝って寒くはなかった。お洒落なパッケージのクラフトビールの缶とせっかくだからとアメリカンドッグも買った。
 寝静まった街は人どころか車の気配もなくて、歩きながら缶ビールをプシュッと音を立てて開けても誰にも見つからなかった。縁石の上をふらふらと体重に任せて歩いてみる。飲みかけの缶がちゃぷちゃぷと鳴いた。
 大人ってこういうことでいいんだろうか。大人になった。なってしまった?
 小さい頃、大人になったらお医者さんになりたかった。
 大きくなったらスポーツ選手になりたかった。
 美少女戦士になりたかった。
 ビールの泡になりたかった。
 誰かの一番になりたかった。
 違うな。もっと、もっと曖昧な。例えば、例えば……。
 例えば、大人になったら何者かになりたかった。

 例えば、何者かになりたかった。
 有名人になりたいとか、世界に褒められるような才能で注目されたいとか、そういうことじゃない。ただ、自分という存在に何者かを表明できるラベルがきちんと貼られている、みたいな。そんな存在になりたかった。
 それは多分ヒトという生物が生まれながらに持っている欲の一種なんだと思う。
 自分を認められたい。自分の行動を認められたい。誰かに求められたい。何かを求める心に突き動かされるような、意味のある人生を送りたい。誰かにとって意味のある人間として存在したい。あなたに愛されて、私という人間のほつれた輪郭を紡ぎ直してほしい。
 静かに飢えていて、寂しくて、曖昧な欲求。
 もしかしたら単純に、親になればその欲求は満たされるのかもしれない。本当の無償の愛は子から親に向けられるという。何者かになりたいという感情は「母親」という役割にピッタリ収まるような気もする。目を離したら死んでしまう小さな命のために食を用意し、金を稼ぎ、愛を注ぐ。それら全てが愛らしい存在に受け入れられて、認められて、彼らが純真無垢な愛を返してくれる。一人では生きられない赤ん坊が人を何者かにしてくれる。
 でも、それを当たり前にやるには社会はちょっとばかり難しくて、私はこどものままだった。
 平日の深夜にビール片手にふらふら街を彷徨えるくらい自由で、そして、心許ない。特別な何かにはまだなれてなくて、切なさを紛らわしてくれる誰かもいない。ただ、生ぬるくて湿度を孕んだ夜の街に溶けていく。信号機とお気持ちばかりの電灯だけがぼんやりと夜を照らしている。星……はあるのかもしれないけど見えなかった。
 鼻唄を歌っても誰にも気づかれない。静かで、なんか優しかった。
 大人になったら、何者かになりたかった。大人には別になりたいともなりたくないとも思わなかった。世間的には多分もう大人と思われているんだろうけど、自己評価はそれに追いついていなくて。花束は貰えないし、半年前に飲みにいったあの子からの連絡は来ない。誰も彼も寝ちゃった夜の住宅街は嘘みたいに誰の気配もなくて、自分だけが明日も続いてしまうあれやこれやを免除されているみたいな気分。
 このまま泡になって、身体がふわふわ表面から崩れていって、五月の風に乗って飛んでいくみたいな足取りの軽さは小さな絶望とはあまりにミスマッチで可笑しかった。ここは多分私の知ってるあの街じゃなくて、もっと素敵などこかなんだということにしておく。
 揺れて、崩れて、浮かんでく。肌の表面から私が形をなくしていくような淡い夜。
 今夜だけ、どこでもないこの場所で、何者でもない何かでいたい。

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コメント

  1. fukurou fukurou

    りんさん、初投稿ありがとうございます!
    力作ですね^_^
    等身大の女性の語り、もしかしたらりりさん自身も抱える葛藤なのかなーと想像しながら読ませて頂きました。

    特に「誘う側でなく誘われる側になりたい」という台詞には共感しました。
    僕もどちらかというと、10代20代の頃は誘う側でした。
    「誰とも会えないよりはマシ」と思って考えないようにしてましたけど、やはりどこかに寂しさは感じてました。

    誰かを好きになることへの考察もよく分かります。
    軽い気持ちで付き合って、だめ男にひっかかりなながらも人生経験を積むのがリア充なのか、慎重に見極めて回り道しないように相手を見つけるのが吉なのか、どっちとも言えないですけどね。

    ただ、若いんですから、あせらず出会いを探していけばいいですよね。
    と、春を過ぎたオジサンは、自分の過去を振り返りながら思いました笑

    青い時代を思い起こせる小説をありがとうございました!

  2. rin rin

    感想くださってありがとうございます!
    まやまさんの言葉で私もあったかくなりました〜。重ね合わせて読んでくださってありがとうございます。

    投稿の仕方が凄く簡単だったので、またチマチマ載せてみようと思います♪

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