身体を張る者なんぞ、頭が悪い。効率を考えない、人種だ。
まして冬に寒中水泳する者なぞ、頭がおかしい。
自分とな別世界の異様な人種だと思っていたが、その考えは間違っていなかったと、身をもって実感している。
肌を刺す水温は、もはや凶器としか言えず、冷気に攻撃され全身が刺されるように容赦なく痛い。
全く、なんて依頼を引き受けたもんだ。
おれは、探偵業を開業して、初めて死の淵に立っていた。
息ができなくなって、頭を水面にあげようとするが、手足がマヒして浮き上がることができない。
これは、もうすぐ三途の川が見えてくるパターンか・・・
わずかにみえてきた走馬灯は、今回の依頼を引き受けたところから始まった。
「浮気調査をお願いしたいの」
おれのおんぼろな事務所に訪ねてきたあいつは、ドアを開けるなりすぐに口を開いた。
珍しい依頼人だ。同業者で探偵の直子。
いつも気が強く、意思が強そうな目をしている彼女だが、目にいつもの生気がなく、どこか泳いでいる。
「まず座れよ」
おれは、彼女をおんぼろなソファへ案内した。
「お茶はいいから」
急須に手を伸ばしたおれを彼女は制す。うまくないことを知っているのか。
おれは彼女の対面のソファに腰かけた。
おれの事務所は、都内某所の繁華街にはあるものの、築50年も経っていそうなビルの一室。
せいぜい10畳ほどの部屋に、応接スペース、PC、資料など全て押し込んでいる。
もちろん、おれ一人で運営している個人事務所だ。
「んで、同業者のお前が、なんでまた?そっちで調べればいいだろ」
直子とは、かつて同じ探偵会社で働いていた。
社員50名ほどだから、探偵としては大手に入るだろう。
おれの方が3つ年上だが同期入社。
それぞれ違うチームで仕事をしていたが、おれと直子は「デキる」探偵として二人で頭角を現していた。
依頼解決率や顧客満足度は、いつも二人がトップ争い。
当然ながらお互いをライバルとして認識しつつ、仕事をしていた。
去年までは。。。
おれはある事情により、その会社を辞めていた。
そして独立し、今この事務所を開業している。
「いいでしょ別に。案件少ないだろうから、持ってきてあげたの」
「それは、嬉しすぎて涙がこぼれるね」
おれは大げさに苦笑いしてみせる。
「実際、経営はどうなの?依頼はきてる?」
「ライバル会社にんな事情言えるかよ」
「ライバルって」
直子は少し微笑んだ。
バカにしたような笑いではなく、なぜか温かみのある笑みだ。
「あんたはなんていうか・・・向上心が強いね」
直子は大きくため息をついた。
「なんか話し辛い依頼でも持ってきたのか?」
直子は、なかなか話を切り出さない。いつも直球でくる彼女からは考えられないくらいだ。
「・・・依頼者は、私自身」
「・・・ん?どういうこと?」
「私があんたに、浮気調査を依頼したいの。自分の会社にはできないでしょ」
「・・・あー・・・」
あまりの衝撃に、言葉が出なかった。
おれが直子と同じ会社で働いていた頃、直子はおれの上司・辻島と付き合っているという噂が流れていた。
その上司のことなら、おれもよく知っている。
「辻島さんが、浮気したってことか?」
「うん・・・」
言いながらも、直子の焦点はなおも合わない。動揺しているもか?しかし、そうも見えない。
何かが引っかかる。
「分かってることは?」
「自分で辻島さんの後を追ってて、決定的な瞬間を撮影できたんだけど、実は昨日そのカメラを川に落としちゃって・・・」
「川?」
「うん。防水のカメラだから壊れはしないけど、業者に頼んで万一中を覗かれたりすると大変だから、同業者のあんたにそのカメラを探して欲しいんだけど」
「まさか、沼田川?」
「そう」
沼田川はその会社の近くを流れる川で、幅は狭くや流れはゆっくりだが・・・
「おれが潜って探せと」
「・・・早く探さないと、下流に流れちゃったら見つからなくなるから」
「今は何月か知ってるよな?」
「ごめん・・・料金は言い値でいいよ」
直子は、うつむいて手をギュッと握る。単なる依頼なら、もっと堂々としていいはずだ。
「他に、何か隠してることは?」
おれが直子に問いかけると、驚いたように顔を上げた。
「・・・・・・・何もないよ」
やけに長い間を開けて、やっと直子は答えた。
何もないことはにない。おれは、うっすら手を震わせている直子を見て思った。
「まぁ、とりあえず引き受けるよ。早速行くか」
「い、今から?」
すぐに立ち上がった俺をみて、直子は焦っていた。
「趣味で潜ってるから、シュノーケリングスーツがあるんだよ。もちろん潜ってるのは夏の話で、冬の潜りはやってことないけどな」
ぶっちゃけ、この事務所が自宅を兼ねているおれは、私物はなんでも棚に押し込んである。
がさごそあさって、シュノーケリングスーツを置くから取り出した。
これはウエットスーツとは違って防寒機能はない。
いや、というか真面目に考えれば、なんて理不尽な依頼なんだろう。
面倒なことに巻き込まれたくなければ断ればいい。
でも、直子の浮気調査。ターゲットは元上司。
おれはがらにもなく、いても経ってもいられなくなっていた。
そこまで思い出して、おれの意識は現実に戻る。
今絶賛沼田川の中で、寒中水泳して、死にかけているのだ。
突き刺さるような水量をかき分け、もがい何とか水面に顔を出すことができた。
これで潜るのは何回目だろう。
限界だ、一度引き上げなければ、凍死するかもしれない。
おれは、川岸に向かって泳ごうとしたが、思っている以上に体力が奪われている。
体が氷のようにかたまり、動かそうとしても手足が全く動かない。
あ、これは本当にだめかも・・・
そのとき、ばしゃばしゃと遠くから泳いでくる人影が見えた。
・・・直子だ。
もちろん、普段着のまま、がむしゃらにおれの元に向かってきている。
何してんだ、お前まで危なくなる・・・
そう思っている間に、直子はおれの元にきて、腕をつかんだ。
「ごめん!」
直子は、涙なのか川の水か分からないが、顔をぐしゃぐしゃにして叫ぶ。
「うそなの!浮気とかじゃないの!」
浮気じゃない?じゃあ何で・・・?
おれはわけも分からないまま、直子に腕を掴まれて岸に引かれていた。
「辻島に言われたの。あいつをこらしめてやれって」
おれは水をゲホゲホ吐きながら、うつろな意識のまま直子の説明を聞いた。
どうやら、最近売上を伸ばしてきたおれの事務所が、直子の会社の顧客を知らない間に奪っていたらしい。
そこで、冗談のように辻島は、おれを仕事ができなくなる体にしてやれと、直子に命じたとのこと。
まるでヤクザのようだ。
直子はもちろん断ったが、鋭くにらまれて辻島の依頼が本気だと悟ったらしい。
でも・・・
「それを言っちまったら、お前の立場がねぇだろ」
見ると、直子はスッキリしたように笑った。
「いいよ。私、辻島さんと付き合ってたけど、もうだめだ。別れる」
「え?」
「こんなこと言う人に魅力を感じてたって、私どうかしてたね。嫌われたくなかったけど、もうどうでもいいや」
「あ、ああ・・・」
「その代わり、あんたんところで働かせてもらうからね」
「・・・はぁ?」
直子は、いつもの強気な瞳に戻っていた。
「あんたに大きな貸しができた。だから、私の働きでもって返していくよ。文字通り死ぬ気で」
「・・・んなもん、いいよ」
おれは事態の変化に戸惑いながらも、微笑んでいることに気付いた。
こいつの笑顔を間近で見られることになるのか?
冬の冷たい風が吹き抜けたが、なぜか寒く感じなかった。
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